創立者インタビュー

菅原哲男

親・子ってなんだろう

――「光の子どもの家」とはどんな施設なのでしょうか?

光の子どもの家は、1985年に厚生大臣とによって法人が認可された児童養護施設です。現在、光の子どもの家を利用している人は36名。子どもたちの年 齢は児童福祉法で2歳から18歳までとなっています。ただし1997年の児童福祉法改正によって20歳までの措置延長が可能になりましたので、この施設に も18歳以上の人がいます。子どもが18歳で社会的に自立するというのは、やはり難しい社会状況ですからね。

――職員に「大事なのは居続けることだ」と言ってるそうですね。

僕は40年間家族にこだわって仕事をしてきました。家族というのは居ればうるさいけど、居ないと物足りない。いつもケンカばかりの夫婦でも、母親が家に 居ないと父親は「かあちゃんはどこに行った?」って聞いてしまう(笑)。「居る」ということはすごく意味を持つことですし、居続けることでしか得られない 信頼関係があるんだと思っています。

◎ 居続ける人を奪われた環境

児童養護施設は、何らかの事情によって家族と生活をすることができない子どもが育つための施設です。ここに来る子が失ったものは家庭的な環境と家族的な関係、つまり「居続ける人」を奪われたということだと考えています。僕は居続ける人のことを「隣る人」という造語で呼んでいます。「どんなことになっても、絶対に逃げないから大丈夫だ」、そう言ってくれる人が「隣る人」であり、それは誰にとっても必要だと考えています。
この施設では5人以内の子どもを一人の職員が担当して疑似母子関係を形成しています。多くの児童養護施設では職員が交代で関わりながら、24時間対応を可能にしていますが、やはりお母さんは一人なんです。お母さんが何人もいたら、おかしいでしょ(笑)。だから、私たちは責任担当制でやっています。

――光の子どもの家の養育目標はなんですか?

目標は3つあります。まずは「産まれてきてよかった」と思えること、次に両親に対して「産んでくれてありがとう」と思えること、最後に、「施設に来た経緯が自分にとっては必要だった」と思えること。3つとも本当に難しい目標です。もちろん最大20歳まで、という児童福祉法で定められた入所期間で達成できる目標ではありません。人生のうちに、一度でいいから3つとも思えればそれで充分でしょう。
僕は「その時期だな」と思ったら、子どもたちに質問しています。「産まれてきてよかったと思う?」と聞くのはだいたい18歳ぐらいです。18歳のとき子どもたちは進路を決めなければいけません。就職か進学か、いまぐらいの時期から1月ぐらいまでには決まるでしょう。進路が決まると、だいたいの子はこれから自分がどう生きていくか、その不安と期待でいっぱいになる。そのタイミングで聞くわけです。それまではどんなにいじけても、どんなにバカなことをしても、職員は「お前と会えてよかった」というメッセージしか発しません。たとえ人殺しをしたって「会えてよかった」と、そう言い続ける、思い続けることが大事なんです。

――「施設入所の経緯が必要だった」と思うのは難しいですね。

人それぞれですが、本当に忌まわしい記憶があるでしょう。さきほどの「産まれてきて……」と同じように、これも僕がその時期だと思ったら質問するんです。 「あれは自分にとって必要だったと思う?」と。聞くと、みんなはよくよく考えますし、なかには何カ月も考える人もいます。そして「やっぱり、あれがあった から自分の人生が始まったんだ」と思ってくれる人がいます。

◎ 自立とは引き受けること

僕は敗戦の年、小学校に入学しました。あの時期は、みんな飢餓を経験しました。がんばらざるをえなかった時代です。そして、どんなにがんばっても食えな くて死んだ人、がんばれなくて死んだ人がいっぱいいたと聞いています。僕たちは「絶対に生き抜くぞ」と思って、雑草や蛇を食ってでも生き延びてきた。クラ ス会などでは、かならず「あの時期があったからタフさが培われたんだ」という話がのぼります。だからなのか自分の子ども時代と施設の子どもたちは重なって 見えてくる部分も多いんです。

ふり返ってみると、やっぱり僕はあの小学校時代が一番楽しかった。もちろん戦争や飢餓、あるいは虐待があればいいとはまったく思いません。ただ、野山を 駆けめぐって、遊びまわって、食い物をいつも探していた。あの時期が一番、楽しかったなあ。みなさんも、同じように死にたくなるような厳しい出来事にやむ を得ず遭遇するときがあると思います。でも本当に厳しいとき、その人の生き方を決めていく軸が産まれてくるんじゃないかな、と思うんです。

だから、僕は子どもたちによく話すんです。「一生のうちに本当に楽しいと思える日は少ない。悩んだり、不条理にぶつかったり、苦しんだりすることのほうが多いように思う。けれども、生きているあいだに、やってくるマイナスもプラスも引き受けないといけない」と。
すべてを引き受ける、その覚悟が「自立」なんだと思うんです。

――最近印象深かったことは何ですか?

2年ほど前、施設の卒業者が突然、身ごもって施設に現れたんです。彼女は卒業後、保育士になろうと専門学校に行ったんですが、そのときは施設のことをボロクソに言ってましたね。ホントにかわいくない子で(笑)。

彼女は専門学校3年生のとき逐電してしまったんです。当然、誰も連絡がとれずに、心配していたら数カ月後、いきなり現れました。当時21歳、とにかくお 腹の子は「産みたい」と言う。もう職員会議は紛糾ですよ。「どうするんだよ!」「だって産みたいんだから、産めるように応援するべきだろ」「いや不幸な子 どもをもう一人つくるわけにはいかない」……、いろんな意見が出ましたが、結局、誰も彼女に『堕ろそう』とは言えない。この施設で子どもを産みました。そ していまも、この施設で母子ともに暮らしています。  この施設では、枠組みやいままでの既成概念にとらわれていては、やっていけないことが本当に多くありました。それは法律にさえ言えることです。法律をた だ遵守していれば、子どもたちを守れるなんてことはないんです。

――施設内の子で不登校の子もいると聞きましたが、不登校については?

いまの学校を見ていれば、学校に行きたくない気持ちはよくわかります。ただ学校の休み時間が楽しくて通っている子の気持ちもよくわかるんです。学校というのは、もう意図的に大人が介入しない時間をつくるしかないでしょうね。
学びに関しては、学齢期だけがその時期だということはありません。僕は社会福祉のことをまともに学び始めたのは58歳からです。それは施設の子どもたち の親が、多いときで9割の人が統合失調症の治療中、または治療経験がある人でした。これはもう精神医学を学ぶしかないでしょ(笑)。必要な学びは生涯、発 見し続けていくものです。

学校に行きたくなくて、外にも出たくない時期があっても、誰だってよりよく生きようとしているんです。ケガをしたり、病気をしたりしたら、動かないで しょ。がんばれば治るわけじゃない。大事なのは何もしないことです(笑)。誰にでもよりよく生きる力は与えられてある。それを信じられるかどうか、命に委 ねようと思えるかどうか、そこなんだと思うんです。

◎ 親子とは 一つの生き物

――「親子」というのはなんなのでしょうか?

家族や親子は一つの生き物だと思っています。虐待があった、家族に問題が起きた場合、子どもだけを取り出してどうにかするのが児童福祉です。そして子ど もに問題があると思えば、子どもだけに教育や医療を施す。子どもだけなんとかしようとすると危ないんです。子どもの問題ではなく、子どもが所属している家 族という生き物が抱えている問題を見なければいけません。

僕は施設の子の親たちに、よく施設で暮らすことを勧めます。もちろん、ずっと暮らすというのではなく、施設に来た日は、子どもといっしょにご飯を食べ、お風呂に入り、いっしょに眠る。そうすると子どもと親、双方にいいことが起きるんですね。  次の日、親が施設から出ていっても、子どもにとっては家族の匂いというか、家族がそこに居続けたというのが、本当に大きな意味を持つ。親にとっても、自分たちの生活を見直すことにもつながります。

どこの施設に聞いても、親が子どもの暮らしのなかに入り込んでいく仕組みをもっている施設を聞いたことがありません。たしかに親は子どもへ危害を加えた 過去がありました。今でもいっしょに暮らす時期ではないから、施設にいるわけです。ただし、産まれてきたときに「おめでとう」と最初に言ったのは家族なん です。そしてこれから先も、その子の成長をいっしょに喜んでくれるのが家族なんです。

だから家族というのはひとかたまりにして考えないといけない。施設に 入ったからといって、子どもをもぎ取って成長させようと思ってはいけなません。どんな人間でもよりよく生きていこう、としているはずだと僕は思っています。そして、どんな家族もよりよく生きていこうとしているはずなんです。

――今後、どんな活動展開を考えていますか?

私も年ですから、多くは望めませんね(笑)。
ただ施設で暮らしたその後の支援をもっとしていきたいな、と思っています。多くの子は18歳や20歳で施設を卒業します。その後、さまざまな場所で居場 所を見つけられればいいのですが、見つけられない場合、そのときは、この施設が彼らにとっての「実家」、帰れる場所なんです。以前、働いていた職員なども 呼んで、彼らが戻ってきたとき、安心できる場所にしていけたらと思っています。

――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)

菅原哲男(すがわら・てつお)
1939年秋田県生まれ。大学卒業後、婦人保護施設「いずみ寮」、児童養護施設「城山学園」「愛泉寮」を経て1985年、児童養護施設「光の子どもの家」を設立。施設長を務める。現在は聖学院大学・足利短期大学・日本社会事業大学講師を兼務。

Fonte2008年12月15日号掲載(発行・全国不登校新聞社)